李承晩大統領のプリンストン博士号取得、その真実と韓国社会の議論

韓国初代大統領・李承晩、その出発点
皆さんは、李承晩(イ・スンマン)が韓国初の大統領であり、米国で博士号を取得した最初の韓国人だと知っていましたか?1875年、黄海道で生まれた彼は、幼少期に漢学を学び、1896年にはアメリカ人宣教師アペンセラーの設立した培材学堂で西洋式教育とキリスト教に触れました。この経験が、彼の人生を大きく変えるきっかけとなります。
独立運動と米国への旅立ち

李承晩は独立協会の中心メンバーとして活動し、1897年には高宗退位要求運動で投獄されました。獄中でキリスト教に改宗し、1904年に特赦で釈放されると、すぐにアメリカへ渡ります。米国での彼は、韓国の独立運動を国際社会に訴えるため、学業と外交活動を両立させていきます。
ジョージ・ワシントン大学からハーバードへ
渡米後、彼はジョージ・ワシントン大学で学士号を取得(1907年)。その後、ハーバード大学大学院に進学し、1908年に修士号を取得します。しかし、ハーバードでは経済学の成績が悪く、当初は卒業が危ぶまれましたが、季節講義を受けるなどして何とか修了します。彼の急速な学歴取得は、当時の韓国人留学生の中でも異例でした。
プリンストン大学での博士号取得、その背景
ハーバード卒業後、李承晩は米国長老教会の支援を受けてプリンストン大学に進学。1910年、彼は政治学博士号(Ph.D.)を取得します。博士論文は「アメリカの影響を受けた永世中立論」で、当時のプリンストン大学総長ウッドロウ・ウィルソン(後の米大統領)とも親交を深めました。2年足らずで博士号を取得したことは、今でも韓国社会で驚きをもって語られています。
博士号取得のスピードと論争
李承晩が学士・修士・博士をわずか5年ほどで取得した事実は、韓国国内でしばしば議論の的となります。特に、正式な高校卒業資格がないまま名門大学に進学し、短期間で複数の学位を取得した点について、「特別な支援や推薦があったのでは」「当時の米国大学の制度が今と違ったのでは」といった憶測が飛び交っています。実際、当時の米国大学院では、修士課程の単位を博士課程に充当できる柔軟な制度があり、李承晩もその恩恵を受けたと考えられます。
韓国コミュニティの反応:誇りと疑念
NAVERやティストーリーブログ、DCインサイドなど韓国のオンラインコミュニティでは、李承晩の学歴について賛否両論が交錯しています。「韓国人初のプリンストン博士は誇らしい」「彼の努力と人脈はすごい」という声がある一方、「本当にそんな短期間で可能なのか」「特権やコネがあったはず」といった疑念も根強いです。特に近年は、彼の独立運動家としての功績と大統領在任中の不正選挙問題などをめぐり、世代間で評価が分かれています。
文化的背景と国際的な意味
海外の読者にとって、李承晩の学歴ストーリーは単なる個人の成功談ではありません。19世紀末から20世紀初頭の韓国は、列強に囲まれた危機的状況下で、知識人や宗教家が国の近代化と独立をリードしていました。李承晩のような留学生は、単なるエリートではなく、民族の未来を背負う存在として特別な期待を集めていたのです。彼の米国での経験と人脈は、後の韓国近代史に大きな影響を与えました。
独立運動家としての評価と現代的再評価
2024年、韓国国家報勲部は李承晩を「今月の独立運動家」に初めて選定しました。これは彼の独立運動家としての功績が再評価されている証拠です。一方で、在任中の不正選挙や4・19革命による退陣など、負の側面も根強く語られています。現代韓国社会では、彼のリーダーシップや人格、そして学歴の真偽をめぐる議論が絶えません。
李承晩博士号取得の現代的意義
李承晩のプリンストン博士号取得は、韓国近代史における知識人の役割、そして海外留学と国際ネットワークの重要性を象徴しています。彼の人生は、個人の努力と時代背景、そして支援者の存在がいかに歴史を動かすかを示しています。若い世代にとっては、夢と現実、そして社会的責任について考えるきっかけとなるでしょう。